第5回 忘れる力
第5回 忘れる力
診察室で認知症の患者さんとお話ししていると、時々考えさせられることがあります。
先ほど話したことを忘れてしまう。何度も同じ質問を繰り返す。ご家族にとっては心配の種です。しかしご本人は帰り際に笑顔で「今日は楽しかったです」と言ってくださることがあります。
記憶は残っていないのに、その時間の心地よさは残っている。不思議なことです。
私たちは記憶することに価値を置きます。確かに記憶は自分らしさの一部です。しかし人生を振り返ると、忘れることによって救われていることも少なくありません。失敗や後悔、悲しみや怒り。そのすべてを鮮明に抱え続けていたら、人は前へ進めないでしょう。
老いは記憶を少しずつ手放していく過程でもあります。それは決して望ましいことばかりではありません。しかし、記憶の量だけが人生の豊かさを決めるわけでもないように思うのです。
人は記憶によって生きています。そして同時に、忘れることによっても生きています。
認知症の患者さんの穏やかな笑顔に出会うたび、私はそんなことを考えるのです。
